演説妨害と言論の自由

演説している政治家の近くに行って大声を上げることにより演説を妨害する行為は警察によって規制されるべきだろうか?この話題について意見が割れているようである。

 

二つの立場の人が対話していると想定して、合意に至るかどうかをシミュレーションしてみたい。

 

A「演説している政治家の周りで学生が大声で抗議しているからといって、警察が取り囲むなんて、市民の言論の自由が侵害されている!」

B「演説の妨害は民主主義への挑戦ではないのか?君たちがいつも言う所の、まさにナチスの手口なんだよ。」

A「でも、市民が政治家に異議申立てする機会を警察が奪っていいの?国家による市民の自由の規制ではないか。」

B「他の市民が政治家の演説を聞くことを妨害するのはよいことだと思うのか?官憲が演説の妨害を取り締まるのは、官憲が演説自体を取り締まることとは違うよね?」

 

あまりにもかみ合っていないので、読者の皆さんは、彼らがお互いに合意できるようには思えないかもしれないが、ここではまず、第三者に入ってもらって論点を整理することにしてみよう。

 

C「まあまあ2人とも。二人が合意できる論点から話を始めてみよう。以下のルールを守ってほしい。

  • できるだけ論点から外れるような相手の感情を害する言葉をつかわない。
  • お互いの合意点を探し出すことに協力する。

 

たとえば以下の文には賛成できるかな?」

 

演説の妨害はよくない。

 

A「うーん。市民による抗議は妨害とはいえないのでは?私も、演者や聴衆に暴力や威嚇を伴うような妨害活動は賛成しない。」

B「「市民」のふりをして集団で計画的に特定の政党の言論活動を妨害しに来ることは、好ましくないことではないか?例えばナチスがやっていたように。あるいは、与党などの多数派による少数派への演説妨害はAにとっても好ましいとは思えないよね?」

C「ここで合意できるところを特定しておこう。どうだろうか。」

演者や聴衆に暴力や威嚇を伴うような演説の妨害活動はよくない。

A, B「合意できる。」

C「まだ、取り締まるべきかどうかの判断については、踏み込んでいない。しばらくよくない妨害活動について合意点を探していこう。ここで一旦確認しておきたいのだが、演者が政府、与党であっても野党、市民団体であっても、価値判断には影響ないですね?」

A「いや・・・政府・与党への批判の方がより許容されるべきではないか?少数派の意見は聞き入れられる機会がない訳だから。「妨害」というレッテルを張らないでもらいたい。」

B「演説妨害活動ではなく、演説によって自分の意見を伝えたらよいのでは?」

A「市民には、反対している、ということを伝える権利がある。」

B「演説を聞きたい、ほかの市民の権利も尊重してもらいたいね。」

C「Aさんは、反対しているということを受け止めてもらえるなら、他人の演説中の抗議はやめるべきだと思う?」

A「反対の声を上げている人を尊重する態度があるならば、そもそも演説中に抗議されないと思う。」

B「Aは、演説しているひとの態度によって、演説中の抗議が許されるかどうか決まるというの?」

 

C「ちょっと論点が増えてきたね。Aとしては、自分たちの側の活動を、演説妨害と呼ばれるよりは抗議だといいたいのだね。」

A「そうだ。」

C「ならば、ここでいったん、演説中に継続的に声を上げる行為を「抗議」と呼ぶことにしよう。」

B「「抗議」と名付けようとも、演説を妨害する意図があることには変わりないんじゃないかな。自分たちが尊重されていないと感じるからこそ、演者への「抗議」活動を継続的にしているのではないか?」

C「ふむ。A、Bに聞いてみたい質問をかいてみた。読んでみてほしい。」

演者への「抗議」を集団で継続的に行うことは、市民の権利として尊重されるべきだと思うか?「抗議」の対象が与党であろうが野党であろうが、だれであっても?

 

演者への集団での継続的な「抗議」を国家権力(警察)が、抑制することは適切か。

 

演者への集団での継続的な「抗議」を受けてもしかたのないといえるような対象(政治家、市民、活動家・・)はあるか?

 

ナチスは、私的な集団を組織して、共産主義者など政敵への暴力的な演説妨害を行っていたことが知られています。現代の日本の警察が政治家の選挙演説への「抗議」を抑制することと、ナチスの活動家が演説を妨害することは、質的に違いますね?日本の警察は、野党の演説を妨害していないですから。 

 

 (終わり。あとは読者の皆様が考えてみてください。)